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「ユージン・ニコラ・サルトリー」(1871〜1946)は、弓の操作性において、巨匠「F.X.トゥルテ」や「ドミニク・ペカット」をも凌ぐといわれ、大変人気があり、現在まで多くの演奏家やコレクター達に求められ続けています。芸術的にも機能的にも優れたそれらの作品は、極めて安定した高い技術により製作されているため、非常に完成度の高い弓が多く、作品毎の出来不出来などのばらつきは殆んどありません。また、弓の重量バランスとスティックの反りの形状において、弾きやすい独自のスタイルを確立したことで大きな成功を収め、まさに20世紀を代表する弓製作家として君臨しているのです。
1871年9月22日にフランスのミルクールで、弓製作家の父「ジュゼフ・ウスタシュ」のもとに生まれた「サルトリー」は、10代前半の頃から父親に弓製作の手習いを受けます。しかし、より高い技術の習得を求めていた「サルトリー」は、短期間で父親の下を離れ、本場パリへ出て「シャルル・ペカット」の工房で修行を始めます。すると「サルトリー」の生まれ持った天性の才能と手際の良さは、すぐにパリで話題となります。その後、更に多くの鍛錬を積むためにいくつかの工房を移動した「サルトリー」は、最も感銘を受けた「ジョゼフ・アルフレッド・ラミー」の工房に落ち着きます。
「サルトリー」のセンスと才能を非常に高く評価していた「ラミー」は、働きやすい環境を与え、自身の持つ知識や技術を余すことなく教え、その結果「サルトリー」は、なんと弱冠16才でベルギーのブリュッセルで行われたコンクールの金メダルを獲得したのです。
このことにより、「ラミー」から完全に自身のモデルでの弓製作を許された「サルトリー」は、2年後の18才に独立してパリに工房を構えたのです。独立後も「サルトリー」は「ラミー」の工房を出入りしながら切磋琢磨し、謙虚に弓製作を続け、時に「F.X.トゥルテ」や「ペカット」、「ヴィヨーム」等の作品をコピーするなど、様々な研鑽を積みながら自身のスタイルを模索していきます。
そして、1894年にリヨンで行われたコンクールで再び金メダルを獲得します。
この頃の作品は、「ラミー」の影響を感じさせる弓だけでなく、以前「ラミー」が「ウッソン」の工房に弟子入りしていた時の兄弟弟子だった「ジョゼフ・アルテュール・ヴィネロン」の弓と非常に良く似た作品が多く見受けられます。
このことから近年の研究では、「サルトリー」が「ヴィネロン」とも何かしらの関係性を持っていたと考えられています。
その後、黄金期前半を迎えた「サルトリー」は、1900年にもパリの国際コンクールで世界一の栄光に輝きます。
そのため、ヨーロッパの各地から多くの注文を受けるようになった「サルトリー」は、高い技術を持つ「ジュール・フェティーク」を弟子に迎え、下仕事を任せるなどして、より多くの作品を共同製作していきます。しかしそれらの作品が衰えることはなく、むしろ洗練されていきます。
そして、1905年には、リエージュのコンクールで栄誉賞を受賞。
翌1906年には、イタリアのミラノのコンクールでも栄誉賞を受賞。
更に1908年に、イギリスのロンドンのコンクールで栄誉賞を受賞し、彼の名は瞬く間に世界中に知れ渡ったのです。
それらの作品は、「ラミー」のスタイルを基本形としたラウンド型の繊細かつエレガントな特徴を持っていますが、「ラミー」の作品よりも勢いとキレがあり、低重心で安定感のある力強い弓でした。そのため、多くの演奏家達から「バランスが良くて弾きやすい!」と絶賛され、他の弓製作家は元より、師匠だった「ラミー」にまで大きな影響を及ぼします。事実、この時期以降「ラミー」の作品は、それまでよりも低重心で太く力強い作品へと変化していったのです。その結果、「ラミー」はそれまで以上に多くの注文を受けるようになったため、息子たちに下仕事を手伝わせるようになり、一家による量産体制を整えていきます。
また、「サルトリー」の人気も鰻上りで、その後もヨーロッパだけでなく、世界各国から製作依頼を受けていきます。そのため、更に多くの弓を製作するために、1914年にはパリ以外に、ミルクールとナンシーにも工房を構えたのです。
そして第一次世界大戦後からは、黄金期後半が始まります。
「サルトリー」は、パリの工房で働いていた「ジュール・フェティーク」を弟子からパートナーへと昇格させ、より多くの製作を任せていきます。また、ミルクールのアシスタントには「ルイ・モリゾー」を呼び、ナンシーの工房には、フロッグ製作のアシスタントとして「ルイ・ジレ」を雇い入れ、チームによる量産体制を整えて行きます。しかしこうしたアシスタントの手が入った作品全ては厳しい検査が行われ、「サルトリー」自身による最終的な手直しと改良が行われる事で、十分な品質が保証できるものだけが販売されたのです。
これらの作品の特徴は、黄金期前半の作品と比べると、ヘッドの背が低くなり、幅広で、より力強くなっていきます。また、弓元の太さとフロッグの厚みもどっしりと肉厚になっていきます。そして、弓の反りの一番深い位置を中心から少し弓先へ移す事で、より低重心でブレない安定した弾きやすい弓のバランスを実現しているのです。更に「サルトリー」の作品は、弓先と手元の重量配分が常に完璧なバランスで製作されています。これは「サルトリー」が、一度作品を完成させ、毛を張り、試奏した上で最終調整の一削りを入れているためです。
「サルトリー」の作品が、“操作性において先の巨匠「F.X.トゥルテ」や「ドミニク・ペカット」をも凌ぐ”と言われる所以がここにあるのです。
また、修理の専門的見地から見ても「サルトリー」の作品は、毛替えや修理が極めてやり易い特徴を持っています。例えば彼の弓は、クサビ穴の形状が非常に工夫されていて、クサビを作り易く、入れ易く、外し易く、そして抜けにくいため、オリジナル部への負担が最小限に抑えられています。また、フェルールの形状やフロッグとの繋がり方においても、毛束を均一に広げる際のやり易さは他の製作家を圧倒しています。さらに、これらにとどまらない独自の工夫や機能的な箇所の発明等により、「サルトリー」の弓はとても丈夫でメンテナンスし易くなっているのです。このことからも「サルトリー」が、演奏家にとっての弾きやすい弓製作だけでなく、製作後の作品をメンテナンスする後世の職人へも配慮した弓製作を行っていたことがわかります。
結局「サルトリー」は、生涯で6つのコンクールで賞を受賞し、彼がまだ生前のうちから“サルトリーコピー”の贋作が世に出回るほど有名になったのです。
なお、1920年に「サルトリー」が活躍の場をヨーロッパだけでなく、アメリカに広げた際には、偶然その贋作の弓を修理で預かってしまいます。激怒した「サルトリー」は、その弓を折り、代わりに自身が製作した弓を「これが本物だ!」と言って渡した、、、という逸話もあるほどです。
そしてその後も、世界中の弓製作家に多大な影響を及ぼした「サルトリー」は、生涯に渡り手を抜かず、安定して素晴らしい作品を数多く製作し続け、多くの演奏家、愛好家、収集家、投資家、ディーラー達に賞賛されていったのです。
今回ご紹介する「ユージン・ニコラ・サルトリー」の作品は、1931年に行われた国際博覧会に出展された作品です。その特徴は、ヘッドが優雅で美しいラウンド型で製作されていますが、弓元は太くて低重心の力強い作品となっていて、黄金期後半の典型的なスタイルで製作されています。また、フロッグが象牙と金で製作されているにもかかわらず、重量バランスが完璧で、非のうちどころのない見事な作品です。なお、ラッピングと皮は製作当時のオリジナルが残されていて、ヘッドのチップやボタンのスクリュー、フロッグのメネジに至るまで、それらすべてがオリジナルのまま残されたパーフェクトコンディションの作品となります。
もう一つご紹介する作品は、1935年に行われた国際博覧会に出展された作品です。1931年製の作品よりもヘッドの背が低く、スティックは更に太く、より低重心で力強い作品となっています。また、フロッグは飴色に透き通るような見事な金鼈甲で製作されていて、「サルトリー」の特徴が随所に見て取れる素晴らしい作品となっております。
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