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2018年2月27日に、筆者はもとより、数多くの弦楽器製作家やディーラー、演奏家やコレクター、そしてクレモナの街からも尊敬されていた弦楽器製作家「ジオ・バッタ・モラッシ」が、享年83歳で他界されました。
今回は、「モラッシ」の生涯とその作品についてお話したいと思います。
「ジオ・バッタ・モラッシ」は、1934年に、北東イタリアにある「アルタ・テルメ」という人口2000人ほどの小さな田舎町で生まれます。
子供の頃「モラッシ」は、山に囲まれたこの街で、スキーで学校に通ったこともありました。また、ハンティングが好きだったようで、ウシ科のシャモアや、鹿、狐などを狩っていたほど自然が大好きな少年でしたが、第二次世界大戦時には近くにナチスがいたため、苦しい時期を過ごす事もありました。
しかし、戦後の1950年にクレモナへ行き、地方政府の奨学金を得てヴァイオリン製作学校へ通い始めます。この頃「モラッシ」は同級生だった「スクロラヴェッツァ」と友人になります。
そして、1955年にこの学校を卒業して、その後の2年間はミラノへ行き「フェルディナンド・ガリンベルティ」や「ジュゼッペ・オルナッティ」からも弦楽器製作を学びました。
1957年からからは、クレモナの母校で教師をしていた「ピエトロ・スガラボット」の助手として働き始め、1959年には、ついにクレモナで自身の工房を開きます。
今回ご紹介する1962年製の作品は、「モラッシ」が28歳の時の作品で、彼が「スガラボット」の助手を務めていた頃の作品のため、「スガラボット」スタイルで製作されています。
この頃の「モラッシ」は、まだ経済力がなかったためか、決して上質な素晴らしい材料とは言えないのですが、その裏板からは、既に木材の選択方法に彼独自のスタイルが見てとれます。また、表板の木材は上質な材料を使用していますが、木目が少し細すぎで、板の厚みとのバランスも悪く、音に頑固な印象を与えております。この頃はまだ試行錯誤の時期で、ニスも少し硬い印象を与えますが、木工加工や刃物使いはすでに一流の技術を持っていました。
その後も真面目にニスや木材についての深い研究と、楽器製作の修行に励み続けた「モラッシ」は、1971年に“マイストロ”の称号を獲得し、このヴァイオリン製作学校の教師として1983年まで教え続けました。
この頃「モラッシ」は、自身のスタイルを確立して黄金期を迎え、非常に安定感のあふれた完成度の高い作品を数多く製作しています。また、彼は仕事の早さにも定評があり、月に2丁の楽器を製作していました。
今回紹介する1975年の作品が、まさにこの時期の作品で、楽器の細工と作りにはキレがあり、バランスの良いアーチや柔らかく上質なニスは美しく、木材のクオリティーや板の厚みなども完璧で、非の打ち所のない見事な作品と言えます。
その後、「モラッシ」は円熟期を迎えますが、70年代の成功に奢る事なく、真面目に、そして真摯に製作作業の一つ一つ丁寧に自身で行っていたため、極めて安定した完成度の高い作品を製作し続けました。その作品からは、完成度の高さに加えて安定した精神性を感じ取ることができます。また、この時期の作品は、音質面においても音色に温かみを感じさせます。
そして、2004年に工房事業としては仕事を引退して、その工房を息子に譲りました。
しかしそれ以降も「モラッシ」は、自宅で楽器製作を続けます。この時期が彼の晩年の時期となりますが、この頃の作品も、引き続き一貫した自身のスタイルで製作し続けていて、技術的な衰えを感じることはありません。
今回ご紹介する2006年製の楽器は、この晩年の作品ですが、黄金期のような勢いとキレはなくとも、その作品からは、熟成した渋みや深みを感じることができます。
そして、2018年2月27日に「ジオ・バッタ・モラッシ」は他界しました。
なお、今日のクレモナにある国際ヴァイオリン製作学校の発展は、まさに「モラッシ」の貢献によるものであり、彼の多岐に渡る実直な研究と、若手の育成、そして強い情熱を持った人となりが、多くの人々に尊敬された理由の一つであることは言うまでもありません。
また「モラッシ」は、国際ヴァイオリン製作コンクールで10本の金メダルを獲得し、名実ともに20世紀後半を代表する世界最高峰の弦楽器製作家として歴史にその名を刻むことになるのです。
最後に、筆者が23歳の時に初めて楽器を購入したのは、この「モラッシ」の工房にあった彼の弟子の楽器でした。突然やって来た、見ず知らずの若い日本人のためにも、丁寧に情熱を持って、様々なことを教えていただいたことを思い出します。
強い感謝の気持ちと深い哀悼の意を表するとともに、心からのご冥福をお祈りいたします。
ラルジュ ファイン ヴァイオリン
代表 清水 宏
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