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「ジュゼッペ・オルナッティ」(1887〜1965)は、ミラノ(県)のアルバイラーテで生まれ、初めは趣味でギターやマンドリンを製作しました。その後、1901年にミラノ県のミラノに移り、アマチュア弦楽器製作家の「カルロ・モネタ」からヴァイオリン製作を学びます。そして2年後の1903年に「レアンドロ・ビジャッキ」の工房へ弟子入りし、本格的に弦楽器製作をはじめたのです。
この工房には多くの演奏家やディーラー、収集家が出入りしていたため「オルナッティ」は、とても多くの良い楽器に触れながら、その研究に励む事が出来ました。この頃「オルナッティ」と共に、この工房で学んでいたのが「ガエタノ・スガラボット」です。
彼らは後に、違うタイプの製作家になるのですが、「スガラボット」は「ビジャッキ」の商売の手伝いで営業活動など、ディーラーとしての仕事も行いながら、その際に扱ったイタリアの古い楽器を実際に隣に見ながら、主に完全コピーの楽器を製作しました。一方「オルナッティ」は、営業などの仕事は行わず、職人としての仕事に徹し、この工房に集まる数多くの楽器の修理・修復や、若い職人の育成などをしながら、特に古いクレモナの銘器を参考に、正統派の楽器製作を研究しながら自身のスタイルを確立していきました。
1914年からの戦時中は、同じ工房で働いていた「ジュゼッペ・ペドラッツーニ」と共に、飛行機を作る工場で木工の仕事をしています。
そして戦後の1918年からは、自身の「オルナッティ」工房をはじめますが、独立してからもビジャッキ家とは深い絆で結ばれていたようで、ビジャッキ工房のために外注で非常に多くの修理・修復等の仕事をこなして行きます。また、「オルナッティ」は、「ビジャッキ」の息子達の教育係も任されていました。
後に「ビジャッキ」は、「オルナッティは数多くいる弟子の中でも、もっとも優秀な職人だった」と評しています。
そして、1920年にはローマで開催された弦楽器製作コンクールのヴァイオリン部門で優勝。
1923年には、チェロ部門でも優勝し、その後も様々なコンクールで数多くの賞を獲得し、それ以降はコンクールの審査員を務めていました。
そして、1961年から1963年までは、現在クレモナにある国際ヴァイオリン製作学校の教師を務め、「ジオ・バッタ・モラッシ」や「フランチェスコ・ビソロッティ」をはじめ、多くの若手の育成にも力を注ぎ、1965年に78歳で他界しました。
「オルナッティ」の作品は、主に「ストラディヴァリ」の作品にインスパイアされていますが、「アマティー」や、「ガダニーニ」の影響も受けています。
その特徴は、個性を出し過ぎる事のない見事なまでに調和のとれた作品で、すべての箇所が丁寧で正確に、バランスのとれた正統派のスタイルで製作されています。
また、「オルナッティ」の作品は、同じビジャッキ工房で働いていたことのある正統派の弦楽器製作家「ガリンベルティ」の作品と、とてもよく似ているのですが、この二人の作品には若干の違いがあります。
「ガリンベルティ」は、仕上げにいたるまでのすべての行程で「これでどうだ」と言った具合に完璧に仕上げているため、その作品の醸し出す雰囲気が、少し頑固で冷たい印象を与えてしまう事があります。
一方「オルナッティ」は、仕上げの際、あえて完全には仕上げず、縁周りなどに丸みを持たせることで、よりエレガントに美しく見せ、その作品の醸し出す雰囲気に温かみを演出しているのです。
性格面に於いても、「ガリンベルティ」はとても几帳面で頑固な性格だったようで、商売に長けていた師匠「ビジャッキ」とはあまり馬が合わず仲違いしていますが、「オルナッティ」は柔軟性があり、「ビジャッキ」家との深い関係を最後まで続け、当時の他の製作家達とも幅広く交流し、多くの製作家達に尊敬されていました。「ガリンベルティ」自身も尊敬する人物として「オルナッティ」の名前をあげています。
この様な「オルナッティ」の人となりもまた、その作品が与える印象に少なからずの影響を及ぼしているのかもしれません。
今回ご紹介する1923年製の「オルナッティ」の作品は、彼がコンクールのチェロ部門で優勝した年と同じ年の作品で、まさに黄金期真っ只中の見事なアンティークフィニッシュの作品です。エレガントで美しい楽器のフォルムやバランスの良いサイズ感、その作りや細工、アーチやニス、そして仕上げのすべてにいたるまで非の打ち所のない見事な作品で、まさにミラノがここに、正統派の弦楽器製作を取り戻した事を示すかのような作品となっております。
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