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「ドミニク・ペカット」(1810〜1874)は、「フランソワ・グザビエ・トゥルテ」と並び、フランスの楽弓製作史上もっとも活躍した製作家の一人で、「トゥルテ」が“弓のストラディヴァリ”と呼ばれるのに対し、「ペカット」は“弓のガルネリ・デル・ジェス”とも例えられるほど、多くの演奏家、収集家、製作家、楽器商にまで広く絶賛されています。
1810年7月15日にフランスのミルクールで、二つのぶどう園を所有する中流階級の父親「ジャン・フランソワ」のもとに生まれた「ペカット」は、カツラ職人だった父親の後を継ぐ為に12才から美容師の仕事を始めます。しかし、弦楽器に興味があった「ペカット」は、パリで活躍していた弦楽器製作家「ジャン・バティスタ・ヴィヨーム」の弟「ニコラ・ヴィヨーム」がミルクールに工房を構えていることを知り、彼に相談して弦楽器と弓の製作を始めます。
その後、1826年頃に「ジャン・バティスタ・ヴィヨーム」が、弦楽器製作だけでなく弓製作の工房を立ち上げ、偉大な「トゥルテ」にも対抗できるような一流の弓職人を育てようと考えていたため、「ペカット」は「ニコラ・ヴィヨーム」の推薦で、父親の仕事を継がずにパリへ行くことにしたのです。
パリに着いた「ペカット」は、すぐに「ヴィヨーム」から「ジャン・ピエール・ペルソワ」の下で弓製作を学ぶように指示されます。すると「ペカット」は、急速に弓製作の能力を伸ばして行き、「ヴィヨーム」から絶大な信頼と好評価を得たのです。
そのため、1830年には兵役義務があったのですが、「ヴィヨーム」の口利きと金銭的な支援により、入隊を回避することができました。このことからも「ヴィヨーム」の「ペカット」に対する強い期待が伺えます。
また、1835年に「ペカット」は25歳で結婚しますが、この時の立会人として「ヴィヨーム」と弦楽器製作家「ジョージ・シャノー」の署名が結婚届に残されております。
このことは「ヴィヨーム」と「シャノー」の親密さも表わしています。
なお、「ヴィヨーム」夫妻は、翌年生まれた「ペカット」の娘の名付け親にもなっております。
そして同年、巨匠「F.X.トゥルテ」が他界します。
この頃から「ペカット」は、「トゥルテ」の工房に出入りしていたことのある弓製作家「フランソワ・リュポ」の工房を頻繁に訪れるようになります。おそらく「ペカット」は、自身の新たなスタイルを模索していて、「ヴィヨーム」の考えだけでなく、何か違うものを求めていたのだと考えられます。
しかしこの事を「ヴィヨーム」はあまり快く思っていなかったのですが、「ペカット」は根気強く「ヴィヨーム」を説得して「リュポ」の工房に通い続けたのです。そのため、この時期の「リュポ」の作品には、「ペカット」との共同製作の弓が存在します。
そして1838年には「リュポ」が他界したため、「ペカット」は「ヴィヨーム」との良好な関係を維持したまま「リュポ」の工房を引き継ぐことになり、理想的な形で見事な独立を果たしたのです。その結果、独立後も「ヴィヨーム」との関係は良好で、彼のために多くの弓を外注として製作しています。
以降「ペカット」は、自身の力強いスタイルを確立していき、さらにその才能を開花させ、演奏家は勿論、弦楽器工房、及び楽器商等からも非常に多くの注文を受けるようになります。そのため、より多くの作品を製作するために、器用で仕事が早かった幼馴染の「ピエール・シモン」を故郷のミルクールからアシスタントとして迎えます。
「ペカット」より2つ歳上の「シモン」との強い信頼関係は見事で、以降「ペカット」は、後に「トゥルテ」と並び、“弓の二大巨匠”とも称されるほど、弓の歴史に残る素晴らしい作品を製作していくのです。
なお、「シモン」はすぐに「ヴィヨーム」の目に止まり、パリに来て2年後には“ヴィヨーム工房”に呼ばれ、更に活躍の場を広げていきます。
「トゥルテ」と「ペカット」の作品は、たびたび比較されることがありますが、「トゥルテ」は製作時期ごとのテーマや基本的な型があり、天才的に計算され尽くした見事な作品を製作しております。対する「ペカット」は、その感性と勢いで直感的に製作された作品が多いため、作品の一つ一つが違います。しかしそれらすべてが、見事に「ペカット」の濃厚な個性を持つ力強い作品となっているのです。これが「ペカット」が“弓のガルネリ・デル・ジェス”と呼ばれる所以です。
その後、弟の「フランソワ・ペカット」や、「ジョージ・シャノー」の工房で弓製作をしていた「ヨーゼフ・アンリ」なども「ペカット」の工房で働くようになり、さらに数多くの素晴らしい作品を製作して行きます。
結局「ペカット」は、1847年に自身の工房を「シモン」に譲ってミルクールに帰郷するまで、非常に多くの作品を残したのです。
帰郷後は、主に実家のぶどう園の仕事をしていましたが、弓製作も続けていて、「ニコラ・メアー」等がしばしば「ペカット」の仕事を手伝っていました。そのためこの時期の作品には、スティックが「ペカット」により製作され、フロッグは「メアー」により製作された作品なども存在しています。それでもこの時期の作品は衰えることがなく、「ペカット」は若手の製作家達に非常に大きな影響を与えながら、力強い弓を製作しています。
そしてその後も「ペカット」の順風満帆な生活は続き、自身のぶどう園で製作したワインを存分に楽しみながら弓製作に励み、1874年1月13日に63歳で他界したのです。
今回ご紹介する「ペカット」の作品“ex クナイツェル”は、黄金期後半の1845年頃に製作された「ペカット」を代表する見事な作品です。ヘッドは厚みのあるスクエア型で大きくて力強く、スティックは太く、材質は宝石のように輝きがあり、まるで「トゥルテ」のそれを思わせるような煌びやかに美しい木材で製作されています。フロッグは上質な鼈甲と金を用いて製作されていることからも、この作品が「ペカット」自身にとっても渾身の作品であったことが伺えます。また、力強さと奥深さに加え、輝きのある美しい音色をも兼ね備えた作品は、巨匠「トゥルテ」の作品にも決して多くはなく、本作品は、「ペカット」の弓の中でも紛れもない最高品質の作品と言えるでしょう。
もう一本ご紹介する作品は、「ペカット」がパリからミルクールに帰郷した後に製作された「トルテ」コピーの作品で、弓の各所に「ペカット」特有のスタイルや、技術的な手癖が見てとれます。
フロッグは製作当初からのオリジナルで「ニコラ・レミー・メアー」によって製作された、大変貴重な作品となります。
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