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ジョン・バティスタ・ヴィヨーム(1798-1875)は、フランスのミルクールで生まれ、ストラディヴァリの工房を訪ねたことがある祖父の影響を受けた父親、フランソワの下で19歳まで働きました。さらに、自らの才能を磨くためにパリへ移り、フランソワ・シャノーの下で2年間修行を積みます。その後はジョゼッペ・ドミニク・レテと共同の工房を開きます。この頃すでにクレモナの楽器を意識していたヴィヨームは次第にその才能を開花させ、25歳の時にパリのコンクールで銀賞を受賞します。そしてヴィヨームは、弓の重要性にも気が付き、フランソワ・トゥルテの存在に一目置き始めました。一方ディーラーとしても多くの楽器製作家、弓製作家、ディーラー、コレクター、演奏家との交流を深めていくのです。
ヴィヨームが27歳の時にジャン・ピエール・ペルソアが、28歳の時には後に弓の巨匠となるドミニク・ペカットがその工房に入ります。そして、29歳の時にレテとの共同作業をやめて、自身の大きな工房をパリ1区に構え、多くの楽器製作家と弓製作家を抱えて、フランスの大楽器商として歩み始めました。
弓については、ヴィヨーム自身はその製作を一切行ないませんでした。しかし、彼の斬新なアイディアのもと、様々なスタイルの弓が多くの弟子達(アンリ、アダム、メアー、シモン、マリーン、マルタン、フォンクローズ、ウッソン、ボワラン等)によって製作されていきます。ヴィヨームが育てた弟子達は、後に弓製作の歴史に残る一流の弓メーカーとなったことは周知の通りです。また、楽器製作を共に行った弟子達も、後のフランスを代表するマスター・メーカーとして名を馳せていきます。そしてヴィヨームは、ディーラーとしても数多くのクレモナの銘器などを扱うようになり、それらの楽器の研究と製作をさらに深め、31歳の時に再びパリのコンクールで銀賞を獲得しました。
36歳の頃からは、名ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニとの交流を深め、彼から多くのインスピレーションを受けました。ヴィヨームは、彼が使用していたexCanonのガルネリのコピー楽器を数多く製作していますが、この時期は弓の面でも、様々な発明をしています。その例として、金属で弓のスティックを製作しますが、これは後から反りやバランス調整ができない事や、経年変化による錆等の問題で、普及しませんでした。他にも、簡単に毛替えができる弓も発明しますが、各部分が壊れやすかったために減退していきました。(左図参照)
しかし、ヴィヨーム自身の楽器製作に対する情熱と研究は尽きる事がなく、ついに41歳と46歳の時に金賞を獲得、最終的にはストラディヴァリとガルネリの作品の見事なコピー楽器を製作するレベルに到達しました。今日、これらのヴィヨームが製作したコピー楽器は、イタリアの楽器に比敵するほど非常に高値で取引されています。
弓の発明も先の失敗にも関わらず研究は続けられました。ヴィヨームが47歳の時には、フェルールが丸く、アンダースライドも丸みを帯び、スティックとの接触面で安定しやすい“ヴィヨームスタイル”の弓のフロッグを発明するのです。それらのフロッグの中には、貝目の部分にヴィヨーム本人、または演奏家の小さな写真をはめ込んだものもあり、これは現在も多くの演奏家、コレクター達に求められています。さらに53歳になった1851年には、ロンドンで開催された世界博覧会のために製作した2つのカルテット作品が、審査員賞を受賞しました。そして、これらのヴィヨームの功績がたたえられ、ついには同年にフランス政府から「レジオン=ドヌール勲章」を授けられました。さらに諸外国の王室からも勲章を受けるに至ったことは、ヴァイオリン製作家としてだけでなく、まさに大楽器商としての彼のビジネスの成功を象徴するものだったのです。
今回ご紹介する1862年製のヴィヨームの作品は、彼が64歳の時に製作した楽器で、当時、一世を風靡した名ヴァイオリニストの一人であったデルファン・アラールのために、その所有するストラディヴァリウスをモデルとして製作した作品であり、現存するヴィヨームの作品の中でも、最も美しい作品の一つです。
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