VUILLAUME, Jean Baptiste1798 - 1875
ジャン・バティスト・ビョーム



ジャン・バティスト・ビョームは、19世紀にフランスの弦楽器業界を世界に広め、その中心的な役割を果たした人物です。彼自身は、弓製作者ではなく、バイオリン製作をしていましたが、彼は弓を非常に重要な物と考え、その発展の為に様々な発明をしました。そして沢山の職人を育て、価値ある弓を残しています。


【 Jean Baptiste VUILLAUME の生涯 】
179810月7日 ミルクールで生まれた。
父 Claude Francois はバイオリンメーカーで、7人の子供がいたが、その内2人は幼い頃になくなり、残った五人のうち、J.B.VUILLAUME が最も年長であった。
181012歳この頃から J.CHANOT あるいは N.MATHIEU に弓製作を習ったと考えられる。しばらくして、同じミルクールの出身の少し年上であった Nicolas Eugene SIMOUTRE がリヨンから戻ると、VUILLAUME 兄弟は彼のこの工房に雇われた。
181820歳ある理由によって Francois CHANOT より、ギターを製作して欲しいと依頼を受け、パリへ上京する事になった。パリでは Nicolas Antoine LETE という商人に雇われていた。
182325歳Vuillaume が製作したバイオリンがパリのコンクールで銀賞を受賞し、脚光を浴びるようになった。また、Vuillaume はこの頃、弓の役割の重要さに気が付き、弓に関して研究を始めた。そして Francois Xavier TOURTE の存在を一目置くようになった。
出品したのは LETE であったが、Vuillaume は、この頃から世間に名前を前面に出す事を許された。製作した楽器には番号を付け始めた。
182527歳Jean Pierre Marie PERSOIT と一緒に働きはじめた。
この頃は Persoit は自分のスタイルで弓を製作していた。この弓には Vuillaume の小さな焼印が押されている。
182628歳Dominique PECCATTE が工房に入り、J.P.M.PERSOIT の指導の下、修業を積んだ。
182729歳5月14日 Adele Guesnet と結婚し、双子の娘が生まれた。
LETE との共同作業を辞め、パリ1区の Petits Champs 通りに独立して店を構えた。こうして、Vuillaume と沢山の職人との共同作業が始まり、パリ一の工房として、フレンチ弓製作を先導する時代が始まった。
183436歳バイオリニスト Paganini や Beriot などと交流があったようだ。
この頃、金属で作られたスティックの弓などを発明し、演奏家の評判を得た。しかし、この弓は、反りやバランスの調整が出来ない事や、時間が経つと錆が出てくる事などが原因で、徐々に需要がなくなっていた。
183537歳毛替えが簡単に出来る弓を発明し、特許を申請した。これは翌年2月26日に、許可が下り、その後15年間に渡り製作され続けたが、各部分が壊れやすかった為に、衰退していった。
184547歳沢山の職人を雇い、皆に同じスタイルで弓を製作させ、技術の統一を図った。
この頃から“Vuillaume”スタイルのフロッグが製作され始める。特徴は、フェルールが丸く、アンダースライドも丸みを帯び、スティックとの接触面で安定しやすい。本人、または演奏家の小さな写真をフロッグの貝目の部分にはめ込んだものもある。
185153歳彼の仕事が評価され、政府から表彰を受けた。
185860歳工房を Thernes の Demours 通りに移した。当時この地域は、パリの市外とされていた。彼は隠居するつもりで、この地に越したらしいが、結局は、生涯仕事を続けた。
187577歳2月19日、家族に見守られ他界した。


ジャン・バティスト・ビョームは、自分自身では一切弓を作らず、発案した物を職人達に作らせていました。彼の工房で製作された弓の中で、特に素晴らしい品質の弓は、まるで“腕の延長”と評価され、彼の研究や、発明がどんなに画期的であったかが、伺えます。

ビョームは強欲で、独占欲が強く、職人達との間で度々争いが起こる事もあったようですが、彼らの兵役制度の免除を求めたり、コンクールへの出展の機会を与えたりなどして、惜しみない援助をしていたのも事実です。また、彼の数々のインスピレーションは職人達を刺激し、彼らの利益となり財産となっていった事で、上手く関係を保っていたのでしょう。ビョームが施したフレンチ弓に対する功績は、現在も、多くの人々を魅了し、影響し続けています。


・ J.B.Vuillaume の工房で働いていた主な職人: