PECCATTE, Charles Francois1850 - 1918
シャルル・フランソワ・ペカット



シャルル・フランソワ・ペカットはドミニク・ペカットの甥にあたります。彼は5人兄弟の末っ子で、わずか5歳の頃に父親のフランソワ・ペカットが亡くなり父親から直接弓製作を学ぶ事はできませんでした。しかし、幼い頃から父や叔父のドミニク・ペカットの活躍をみて、影響を受けたシャルル・ペカットは12才になった頃、迷わず弓製作の道に進むことを決めました。


【 Charles Francois PECCATTE の生涯 】
185010月14日 ミルクールで生まれる。
18511歳ミルクールの家を売却し、家族でパリへ移り住んだ。
18555歳父親の Francois PECCATTE が他界。一家は生活に大変苦しんだが、ミルクールの家を売却した際の賃金で何とか飢えをしのいだ。
186212歳Auguste LENOBLE という男性が、正式ではないが義理の父親になった。彼もまた弓製作者で、C.F.PECCATTE は彼の下で弓製作を習い始めた。
LENOBLE はあまり腕の良い製作者とはいえなかったが、C.F.PECCATTE は生まれ持った才能とセンスで徐々に実力を付けていった。
186515歳J.B.VUILLAUME の工房へ弟子入りした。この工房では父や叔父の Dominique PECCATTE が働いていた時期があったので、すぐに工房へ出入りする事ができた。彼はこの工房で F.N.VOIRIN から直接指導を受け、どんどん成長していった。
Vuillaume スタンプの押された弓は非常によく特徴を捉えており、とても良く似ていた。
187020歳Vuillaume の工房を離れ、兵役義務を果たすため軍隊へ入った。
187222歳7月16日 Marie Moulliere と結婚した。
この頃から Vuillaume スタイルで製作された弓には“PECCATTE A PARIS”の焼印を押した。
187323歳この頃彼は生活の為に政府関系の仕事をしており、その時間の合間に弓を製作していた。
187424歳義父の LENOBLE と共に仕事をしていた。おそらく、名声の低い LENOUBLE にとって“PECCATTE”というネームバリューはかなり強い効果があったと考えられる。
188030歳C.F.PECCATTE は家族と共にパリ8区のオペラ座近くに引っ越した。
この頃から彼の評判が徐々にあがりはじめた。
188131歳母親が亡くなったのをきっかけに義父の LENOUBLE と一切関係を持たなくなった。
188535歳ベルギーの Antwerp コンペティションで銀賞を受賞した。
この頃製作された弓にはシンプルに“PECCATTE”という焼印がおされている。べっ甲、象牙、金などを用いた弓の特徴は、やはり Vuillaume の影響を受けているが、それよりもやや力強く、叔父の D.PECCATTE や父親の F.PECCATTE のスタイルを思わせるようなものであった。
188939歳パリのコンクールで銀賞を受賞。
パリのコンセルバトワール(音楽学校)に自分の仕事を評価してもらい、仕事をもらえるように依頼した。
190050歳注文が次第に増えてきたので、何人か腕の良いアシスタントを雇い、スティックの荒削りを任せていた。一時期 Eugene SARTORY が工房に出入りしていた。
彼が一人で製作した弓に比べると、他の職人の手が入った物は、やや品質が劣る。後期には、初期に使用していた焼印“PECCATTE A PARIS”と同じ物を押した。
191868歳10月22日に他界した
彼は死の間際まで弓を製作し続けた。


1890年頃、シャルル・フランソワ・ペカットは弓職人のリストを作成する提案を持ちかけ、パリの労働者の商業年鑑に掲載されるようになり、それがきっかけとなり、職人達の歴史が今にも残されています。彼は非常に沢山の作品を残し、その中でも品質の高い弓は同世代の職人ラミーやサルトリーと比較されることもあります。