PERSOIT, Jean Pierre Mariec.1783.84 - 1854
ジャン・ピエール・ペルソワ



ジャン・ピエール・ペルソワは18世紀後半に生まれ、弓メーカーとなり、J.B.ビョームの下で12年間働いていました。そこで彼は、ドミニク・ペカットの指導を任されるなど、弓製作史上において、重要な役割を果たしました。同世代のフランソワ・トゥールテとは、直接的なつながりは見られませんが、大きな影響を受けているのが、作品に表れています。


【 Jean Pierre Marie PERSOIT の生涯 】
1783Jean Pierre Marie PERSOIT の生まれた正確な日時、場所は不明。
彼は、あるバイオリン工房でバイオリンや弓製作の宣伝活動を行っていた。この工房では、バイオリンと弓の両方を生産していた。PERSOIT の働いていた工房がどこなのかは未だ不明だが、この頃製作された彼の弓のスタイルは F.X.TOURTE の影響を受けており、LUPOTのスタイルに良く似ていた。
180926歳娘が生まれた。
パリ1区の Prouvaires 通りに住んでいた。F.X.TOURTE の住まいの近くであった。
181229歳4月27日 Jeanne Faverot と結婚。
181835歳双子の姉妹が生まれ、全部で3人の娘をさずかる。
182441歳この時期のパリの商業年鑑に彼の名前が登録されている。住所はパリ1区で、やはり TOURTE の近所。
この頃の特徴は、弓のスタンプを改良し“PARIS”を略して“PRS”に変え、ヘッドのシャンファーは殆ど垂直で、大きくカットされている。フロッグは力強い印象。
182542歳同じ地区の Bailleul 通りに引越した。
182643歳この時期から、彼の名前が業界には残されていない事から、J.B.VUILLAUME の工房に入ったと考えられる。
この頃の特徴は、Vuillaume スタイルで製作された弓のヘッド部分は丸みを帯びている中にも力強さがあり、とてもエレガント。アジャスターは、“PRS”スタンプの弓と同じ形。ヘッドの形が力強い。シャンファーは以前ほど大きくカットされていない。フロッグは高さが高く、のど部分が短く角ばっている。弓の金属部分に、金やニッケルは殆ど使用しなかったようだ。
J.P.M.PERSOIT は Dominique PECCATTE の指導役を与えられ、弓作りの基礎を教えた。
183956歳この年にパリ2区の Clery 通りに自分の店を構えたと記録されている事から、Vuillaume の工房を出たのもこの頃と推測できる。
184966歳妻 Jeanne Faverot が他界した。
185168歳おそらく、この頃仕事をリタイヤしたと考えられる。
185471歳姪の結婚の立会人となっている。これが、彼に関する最期の記録である為、彼が亡くなったのは、これ以降となる。
※年齢は1783年に生まれたと仮定して計算しています


ジャン・ピエール・マリー・ペルソワは12年間もJ.B.ビョームの為に働いていた為に、自分自身のブランドの弓をあまり多く製作することは出来なかったようです。
しかし、その少ない中にも、品質の高い弓があり、フランソワ・トゥールテの作品と比べられる事もあります。