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1837 | | 2月16日にミルクールで生まれる。 父親 Louis MARTIN はバイオリン作りの経験を持つ。 父親が幼い頃に亡くなり、ミルクールの大きな工場で弓製作を学んだ。
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1857 | 20歳 | 同じ工場で働き続け、多少なりとも家計を助けていた。この頃からパリの J.B.VUILLAUME の工房で働く為の申請を出していた。 Vuillaume スタイルで弓を製作。ヘッドは丸みを帯びながらも力強いイメージがある。フロッグの部分に彼の個性が現れている。
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1858 | 21歳 | 彼の申し出が認められ、J.B.VUILLAUME の工房で働き始める。彼はどんどん実力を付けていった。
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1863 | 26歳 | 故郷ミルクールに帰り、バイオリンメーカーの娘 Rose Mougenot と結婚した。 自分の店を構えたが、最初の頃は思うように商売が上手くいかなかったようだ。 弓のスタイルは変わらずに Vuillaume の物に似ていて、ヘッドやフロッグ部分は少し丸みを帯びている。
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1870 | 33歳 | この頃から何人かの職人を雇っていた。
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1975 | 38歳 | 年間144本の弓を製作したと役所に申告した。彼はミルクールの Mennesson 工房や Jerome Thibouville Lamy(JTL)工房の為に弓を製作して販売していた。 ミルクールに製作共同組合を作り、組合長の役割をしていたが、上手く機能しなかったようだ。
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1880 | 43歳 | この頃工房に出入りしていた弟子には Joseph Arthur VIGNERON、LANGONNET、DELUNET、そして息子の Louis Auguste がいた。 徐々に商売が上手くいかなくなってしまい、経営が困難になってきた。 息子の Louis Auguste は同年からパリの Chanot の工房に移った。
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1881 | 44歳 | 仕事を提携していた Mennesson が故郷に帰ってしまい、術なくして MARTIN は破産宣告を受けてしまった。 彼は様々な人に仕事の依頼をお願いしていたが、ミルクール市からも彼のように生活が困難な人の為に補助金を支給された。 家も工房もない中でも彼は弓を製作し続け、その品質は決して変わることがなく、高いレベルを保ち続けた。
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1910 | 73歳 | 3月29日 ミルクールで他界した。
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