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1800 | | 12月29日 ミルクールで生まれる。 父親 Sebastien Maire は織物師であった。Nicolas MAIRE はミルクールの弓製作者 Etienne PAJEOT の下で修行したと考えられる。 MAIRE の初期の頃の弓は E.Pajeot と ADAM に影響を受けている。
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1826 | 26歳 | ミルクールに自分の店を構え、製作した弓には“N.MAIRE.”という刻印を使用したが、最後のピリオドはすぐに使用されなくなった。 “N.MAIRE.”の刻印は1850年頃まで使用されていた。ヘッド:少し高めで、ほほが平ら。フロッグ:長くて少し低め。
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1828 | 27歳 | 2月14日 ミルクールにて Anne Contal と結婚。その後彼は仕事上“Maire-Contal”という名前を使用した。二人の間には沢山の子供が生まれたが、その内の殆どが幼い頃に亡くなった。
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1830 | 30歳 | この頃からフランスの経済社会が徐々に崩れ始め、多くの人に影響を与えた。Maire もその内の一人で経営困難に陥った時に販売を一時中断したが、彼はこの間も弓を製作し続け、しばらくして販売も再開した。 E.Pajeot 工房は経済危機の中でも商売が繁盛していた。この時期製作された弓にはスタンプの押されていないものがある。
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1837 | 36歳 | 息子の Francois Nicolas が生まれた。彼は後ほど父親について弓製作を学び、製作者となった。
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1844 | 44歳 | この頃、店はとても繁盛し、年間約4,000本もの弓を生産していた。工房では約15人以上もの職人が雇われ、働いていた。さらにこの年にパリで展示会が行われ、Maire は自分の作品を出品するように依頼された。 自分の店を経営しながらも、師匠である E.Pajeot のアシスタントを続けていた様で、この時期の弓のスタイルも非常に良く似ている。
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1849 | 49歳 | 師匠の Pajeot が他界した事をきっかけに Maire はパリで仕事をする事を決心した。
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1853 | 53歳 | パリの Viarmes 通りに店を構える。この頃彼は自分のブランド以外にも、J.B.VUILLAUME や CHANOT の為にも弓を製作していた。 この頃の弓は Dominique PECCATTE のスタイルで製作した。特にヘッド部分は見間違えるほど、よく似ている。
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1855 | 55歳 | この頃店の名前を“FRANCOIS-MAIRE”と改名。おそらく息子の名前から取ったものと考えられる。 彼の弓は当時の流行に沿って徐々に良くなっていった。
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1866 | 66歳 | この年の7月から店の名前をシンプルに“MAIRE”に改名した。
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1876 | 76歳 | パリのはずれのモンマルトルにある Burq 通りに引っ越した。
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1878 | 77歳 | 7月17日に他界。
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