MARTIN, Jean Joseph1837 - 1910
ジャン・ジョゼフ・マルタン



ジャン・ジョゼフ・マルタンは幼い頃に父親をなくし、金銭的に貧しい生活を余儀なくされたましたが、若い頃から生計の一部を担い、大変苦労してきた人物です。彼の弓作りの才能は確かなもので、J.B.ヴィヨームの下で弓製作を学び、彼自身も多くの弟子を育てましたが、やはり最後まで生活は苦しかったようです。
根っからの“職人”であった彼は“商人”には向いていなかったようです。


【 Jean Joseph MARTIN の生涯 】
18372月16日にミルクールで生まれる。
父親 Louis MARTIN はバイオリン作りの経験を持つ。
父親が幼い頃に亡くなり、ミルクールの大きな工場で弓製作を学んだ。
185720歳同じ工場で働き続け、多少なりとも家計を助けていた。この頃からパリの J.B.VUILLAUME の工房で働く為の申請を出していた。
Vuillaume スタイルで弓を製作。ヘッドは丸みを帯びながらも力強いイメージがある。フロッグの部分に彼の個性が現れている。
185821歳彼の申し出が認められ、J.B.VUILLAUME の工房で働き始める。彼はどんどん実力を付けていった。
186326歳故郷ミルクールに帰り、バイオリンメーカーの娘 Rose Mougenot と結婚した。
自分の店を構えたが、最初の頃は思うように商売が上手くいかなかったようだ。
弓のスタイルは変わらずに Vuillaume の物に似ていて、ヘッドやフロッグ部分は少し丸みを帯びている。
187033歳この頃から何人かの職人を雇っていた。
197538歳年間144本の弓を製作したと役所に申告した。彼はミルクールの Mennesson 工房や Jerome Thibouville Lamy(JTL)工房の為に弓を製作して販売していた。
ミルクールに製作共同組合を作り、組合長の役割をしていたが、上手く機能しなかったようだ。
188043歳この頃工房に出入りしていた弟子には Joseph Arthur VIGNERON、LANGONNET、DELUNET、そして息子の Louis Auguste がいた。
徐々に商売が上手くいかなくなってしまい、経営が困難になってきた。
息子の Louis Auguste は同年からパリの Chanot の工房に移った。
188144歳仕事を提携していた Mennesson が故郷に帰ってしまい、術なくして MARTIN は破産宣告を受けてしまった。
彼は様々な人に仕事の依頼をお願いしていたが、ミルクール市からも彼のように生活が困難な人の為に補助金を支給された。
家も工房もない中でも彼は弓を製作し続け、その品質は決して変わることがなく、高いレベルを保ち続けた。
191073歳3月29日 ミルクールで他界した。


彼がパリのJ.B.ヴィヨームの工房で働くことになり、ミルクールから上京する際には、なんと、その道のり365Kmを10日間かけて歩いて行ったそうです。その交通費をも惜しんだのでしょう。
彼のような職人は決して珍しいケースではありません。現在も起こり得る事ですが、弓や楽器職人が、いくら実力があっても、製作だけで生活をしていくということは大変困難な事です。